道を歩いていると、どこからか「ニャーン」と猫の鳴き声がした。
繁殖期のあの耳ざわりな大声ではなく、絶え入りそうにかすかな声だ。
「にゃあん」
見上げると、民家の屋根の上に猫がいた。
屋根のふちから、頼りなげにこちらを見下ろしている。
「もしかして、そっから下りらんないの?」
気のふれた人と思われるのもかまわず、天下の往来で猫に話しかけるわたくし。
「ニャーン」
哀れっぽい調子で返事をする猫。
さあたいへんだ、なんとかして屋根から下ろしてやらなくては…
上に乗ってくれればと手持ちの日傘を屋根にさしかけてみるが、私の意図を理解しない猫は後ずさるばかり。
何度かトライしたが、ことごとくダメ。
「ニェーン?」
猫はまだ、こちらを見つめている。
よくよく見れば、屋根の下の方は庭木と接しているではないか!
ここを伝って下りればよろしい。
指さしたりとパントマイムで脱出路を猫にわからせようとするものの、全てが徒労に終わった。
「にゃーん」
悲しげな鳴き声を背にして、私は出勤のため電車に乗らねばならなかったのである。
また次の日、猫は同じ家の屋根の上にいた。
同じように日傘を屋根に向けてみたが、猫は見向きもしない。
昨日はニャアニャアと盛んに鳴いていたが、この日は鳴きもしない。
屋根の上で食料も水もなく、弱っているのかもしれない。
どうしよう、家の人に進言してはしごで猫を下ろしてもらうべきか…
なすすべもなく、私は無言の猫をそのままにしてバイト先に向かった。
そのまた次の日、休日ゆえ私は家にいた。
朝ゲリラ豪雨がベランダの手すりを叩くのを見て、あの猫はどうしているかと気になった。
冬のことである。雨に濡れて体温が降下し、最悪死亡しているかもしれない。
昼前に雨はやみ、豪雨が嘘のように空は晴れ渡った。
いそいそと私はあの家に向かった。
もしかしたら、ぐったりしている…または死んでしまった猫を見てしまうかもしれない。
それでも、向かわずにはいられなかった。
これまでの経緯を話し、夫にも一緒についてきてもらった。
猫は、いた。
真っ青な空の下、元気そうに、………二匹に増えて。
兄弟か親子か、そっくりな毛色のトラネコだった。
増えているということは、どこかに猫の出入口があるのだと私は安堵した。
万一、ずっと屋根の上にいる猫が退去方法を知らないのだとしても、猫は猫どうしだ。
もう一匹の猫に脱出経路を教わればいいのだ。
「あれは、困っているのじゃないよ。人懐こくて、ただ屋根の上が好きなんだろ」
夫はそう言った。
その翌日も、猫は屋根の上にいた。
風も強く寒そうであるのに、悠々と日光浴を気取っている。
こんなにしっかりと、たくましく生きている猫には私の助けなどいらなかったな、と思った。